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日本の中枢すら抜け出せなかったバブルの陶酔

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ビル街

「第11循環」平成バブルの到来

日本には戦後から現在に至るまでの間に、局所的なバブルというものは何度か示唆されてきたが、その中で誰しもそれを実感できたのは、第11循環という呼称で知られている平成バブルであろう。

 

日本で一般的にバブル景気と呼ばれているもので、景気動向指数上は、1986年12月から1991年2月までの51か月間とされているが、その間にはブラックマンデーも経ているため、実際の好景気が顕著となったのは、1988年頃からだろう。

 

バブル景気は、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、及びそれに付随して起こった社会現象全体を指す。

 

特に活況となっていたのが不動産市場であり、バブル末期のピーク時には日本の土地資産は約2456兆円となったという試算が成されている。

土地神話に見る日本経済

バブル景気間は、毎年の様に土地価格は上昇を続け、特に上昇が顕著であった東京の商業地では1年で70%近くも上昇する事もあった。

 

第二次世界大戦後の底値を起点とし、高度経済成長はバブル期以前から続いているが、最終的に1956年から1986年の間、日本全体の地価総額は右肩上がりであった。高度経済成長の30年間で日本全体の地価総額は50倍にもなった。

 

そしてその内、1985年から1990年の期間の伸びは特に凄まじく、この5年間で地価は2.4倍にもなり、これにより、アメリカ全体の地価の合計の4倍にもなっていた。

 

元々日本では、第二次世界大戦以降バブルが崩壊するまで、地価は永遠に上がり続けるという「土地神話」が信じられていた。

 

バブル景気の期間は、そのムードが特に強くなり、テレビ等のメディアでは執拗なほど、地価の高騰が永遠に続くものであるかのような宣伝が繰り返された。これが日本中は、土地神話に対する信仰を助長された事になる。

 

一気に高まる土地需要

元々、1980年代に入ってからは、東京の国際都市への期待から外資系金融機関なども参入してきていたことから、事務所が大量に不足すると予想されていた。

 

反面当時の日本は、様々な規制等により土地の供給が極端に少なく、さらに人口が増え続けるという見解が一般的となっていた為、土地の需要が一気に高まることとなる。

 

この結果、当時の東京都の山手線内側の土地価格で、アメリカ全土が買えるという算出結果が出るほど、日本の土地価格は高騰する事となるわけである。

 

加えて、都市部に限らず、収益の見込み難い地方のリゾート開発なども活況となり、そういった土地の価格もみるみる上昇していった。

大都市の再開発

このバブル期の潤沢な資金を背景に、大都市の再開発の動きが活発になった。

 

しかし都心の優良地区には、地権が細分化されている上に借地借家が多数混在し、権利関係が複雑に絡んでいる箇所が多々存在した。

 

その借地借家法によって、日本では借主の権利が保護されていたため、土地をまとめて大規模開発をするプロジェクトは、必然的に推進が困難となる。

社会問題となった「地上げ」

そのため、大都市周辺の土地取得のため、大手不動産会社を代表したり、依頼を受けた地上げ屋の強引な手口による「地上げ」が横行していた。

 

地上げは、主に暴力団が行っており、現在では考えられないような、借主が経営する店舗の破壊や放火といった過激な嫌がらせが行われ、社会問題にまでなっている。

土地担保融資の拡大

一方、バブル景気に突入する前の1970年代後半頃、銀行は、優良な製造業への融資案件に事欠いていたこともあり、不動産業や住宅への融資へ傾倒していた。

 

1980年代に入ってからは、銀行も土地神話に便乗し、土地担保融資を拡大されることとなった。これは不動産の需要以外にも、当時の日本の情勢により、融資を助長させる環境ができ上がっていたことに起因する。

 

短期間での急速な円高ドル安

その後、1985年のプラザ合意により、短期間で1ドル259円から150円という急速な円高ドル安が起こった。

 

日本では、海外からの輸入品が大量買われるという現象も起こったが、日本製品は海外で販売不振となり製造業は大打撃を受けていた。そこで当時の大蔵省は、公定歩合を1年で4回も下げるという大規模な金融緩和を行った。

 

さらに1987年には、ブラックマンデーにより、それまで40%以上上昇していた株価が一気に急落したため、金融緩和は、さらに拡大される事となる。

「特定金外信託」の整備

これらの要因により、銀行の融資金利は一気に低下し、さらに当時の大蔵省が、「特定金外信託」と呼ばれる臨時的な投資利益に掛かる税制優遇制度を整備したことから、企業への大規模な融資が行われた。

 

ちなみに特定金外信託の整備は、企業への融資拡大をするよう、銀行に向けられた政治的圧力でもある。

 

銀行を揶揄する言葉に「晴れの日に傘を貸して、雨の日に取り上げる」というものがあるが、この頃がまさに「晴れの日」の由来となっている。

度重なる金融緩和がもたらしたもの

また当時は、原油価格もOPECの弱体化で下降傾向にあったため、日本はたび重なる金融緩和にも関わらず、物価が上昇することはなかった。その反面、不動産価格が当時の需要の強さも相まって急上昇する事となる。

 

さらに、たび重なる金融緩和は当時の株価も押し上げることとなる。特に、当時の大手4証券会社には、「日経平均株価を21000円に保つように」という圧力が、大蔵省から掛かっていた。

 

そのため、「営業特金」とよばれる、利回り保証のついた違法な金融商品が横行し、企業に大量に販売されていた。営業特金は、企業の間でも大人気となり、1989年には投資額が40兆円もの市場に膨れ上がった。

 

好景気に突入した企業業績

日経平均株価は、同年の大納会には、現在においても史上最高値となる38,957円44銭を付ける事となった。

 

企業の中でも、これら本業以外の投資が活発となり、その利益で設備投資などを行っていたため、企業業績も好調となり、日本全体が本格的な好景気に入っていく事となる。

 

このように株価や不動産価格が急騰していったため、この頃の日本では「財テク」という言葉が流行していた。ちょうど同時期に、日本は米国からの圧力により様々な規制を緩和していく事になる。

 

これは、日本のマーケットを外資系金融機関に開放する事が目的であったが、結局この規制緩和により、日本の金融機関が、為替取引を行う事が出来る様になったり、特定顧客の融資金利を優遇するといった裁量も持つ事となる。

先物市場の開設

また、先物市場が日本でも開設された事により、ヘッジファンドをはじめとした海外の機関投資家の資金を呼び込める結果となった。

 

これはすなわち、日本にもデリバティブの市場が誕生したことであり、その後、様々な派生商品が日本国内に出回る事となる。

ワラント債の流行

特に流行していたのは、ワラント債であり、当時株価が鰻登りの相場において、企業の間では、聖杯とも呼べる程のスキームが創りあげられていた。

 

そのスキームとは、企業が、海外の投資家に資金を融通してもらえる様に、債権にオプションを付けて資金を調達するというものである。

 

これが、いわゆるワラント債というものなのだが、これに加えて資金を円ではなくドルで融通するという方法が追加される。

 

その調達したドルを、スワップ市場で円に換金するため、その時に企業側には受取る金利が発生するという事になり、さらにそれを特金で運用して利殖するということを延々と繰り返す。

 

資金調達による株価の高騰

日本全国の多くの企業が、このようなスキームを用いて資金調達をしていたため、株価は当然、さらなる上昇を見せることとなる。実はこの環境が用いられたのは、このような日本の景況に目を付けていた米国によるところもある。

 

そもそも先述のようなスキームは、米国の日本政府に対する規制緩和の圧力から始まっており、日本が規制緩和した事でワラント債というものが活発化した。

 

そしてワラント債を用いた日本企業に融資するのは、主に海外の投資家である。

 

メリットを享受したのは海外投資家

バブル期に、ワラント債で得をしているのは、日本企業よりもむしろ海外投資家であった。融資元金や金利の収受は勿論の事、オプションによる債務者の発行株式によるキャピタルまで得ることができる。

 

また、スワップ市場での為替取引は、規制緩和以降に日本の金融機関でも可能となっている。これも、米国の圧力から成っているものだ。

 

先物等のデリバティブは、欧米の金融先進国では既に活用されているものであり、日本のこの好景気を絶好のタイミングであった。

 

つまり、米国が自分達の市場を拡げるため、日本のマーケットをこじ開けたという考え方ができる。実際に規制緩和を期に、日本に参入する外資系金融機関は突如増加し、本日に至るまで様々な金融派生商品を誕生させている。

 

ワラント債市場の急拡大

ワラント債市場の急拡大も、当時の日本の堅調な株価推移の下、成し得られたことと言えるのではないだろうか。

 

暫く経つと、バブルにより潤沢な資金を得た日本企業は、日本国外の不動産や企業の買収に乗り出した。

 

三菱地所が2200億円を投じたロックフェラー・センター買収、ソニーによるコロムビア映画買収、三井不動産のマンハッタンのエクソンビルを記録破りの6億1000万ドルで購入といったところが代表的な例だ。

日本人の爆買い

また、企業に留まらず、土地を担保に大金を借り入れた中小企業オーナーや個人、マイホーム資金を貯蓄していた個人の中からも、日本国外の不動産に投資を行う者が出てきていた。

 

特に、上記の例のような象徴的ビルや企業が、ジャパンマネーにより買い漁られていく様には、米国の心を奪われたという印象から、米国人からジャパン・バッシングが浴びせられた。

三菱地所にみる行き過ぎた景況

結局のところ、ロックフェラー・センターを買収した後の三菱地所の株価は、60%も下落をし、現在は16棟の内2棟のみが三菱地所の所有となっている。

 

このような行き過ぎた景況も、「三重野康」氏が日銀総裁に就任したことにより崩壊を始める。

 

三重野康氏は、以前より日本のバブル景気が、日本の経済に悪影響を及ぼす事を指摘していた人物であり、バブル景気の中でも「株を買った事がない」と自負する人物であった。

 

早速、日銀は1989年に2回の利上げを行う事となる。日経平均株価が最高値を付けたのはその直後となるが、1990年代に入ると、反落を始める事となる。

 

利上げは、さらに3回追加され、大蔵省の株価維持のための証券会社や生命保険への度重なる圧力も空しく、市場は徐々に投資から貯蓄にシフトしていくこととなる。バブルの終焉が明らかになってくると、不動産価格も下落する。

 

銀行が担保として設定していた不動産価値は軒並み目減りを起こすが、当然債務者である企業が、追加担保の差し入れなど出来る筈もなく、不良債権が積み重なっていくこととなる。

 

相次ぐ金融機関や証券会社破綻のニュース

また銀行は、バブル期の最中にBIS規制を掻い潜るために、自己資金に株式投資の利益を組入れていた。

 

そのため、バブル崩壊による株価下落は、自己資本比率の大幅な減少を引き起こし、銀行は、融資枠の縮小を迫られる事態に陥る。そして、その後には、金融機関破綻のニュースが飛び交うこととなる。

 

代表的なところを挙げれば、北海道拓殖銀行が1兆2000億円の債務超過による破綻。

 

証券業では山一證券が海外への損失飛ばしの噂からムーディーズによる格下げにより、創業からちょうど100年で自主廃業と、相次いでネガティブな報道が世間を賑わせた。

繰り返される市場の狂乱

最終的に、日本の銀行による貸し倒れ損失はGDP比で13%以上にもなっていた。地価や株価がいつまでも上がるハズがないことは、誰でも考えれば解るハズなのだが、この時代は、日本全国がその成功に陶酔し、見てみぬ振りをしていた。

 

当時の日本政府に至っては、法の枠を飛び越えてまでそれを推進していた。バブル崩壊以降も、世界のあちこちで狂乱的な相場は起こっているが、その度、人間は教訓を忘れている。

 

現在、大蔵省はその権限を財務省と金融庁に二分されている。

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